異世界人の手記

「どうして私はこの世界に紛れ込んでしまったのか。元の世界では世界革命が実現され、皆が幸せに暮らしていたというのに」

このようなことを言うたびに、周りは怪訝な顔をした。ああそうか、共産主義にかぶれるあまりに気が狂ったのか、とでも思っていたのだろう。確かに、私には元の世界での出来事を証明できない。お前の正気は何が担保するのか、と問われて答えられる人間はいまい。いるとすれば、そいつこそが狂人だ。ただ史的弁証法のみが唯一私が未だ狂っていないことを確信させてくれる。共産革命は歴史的必然なのだ。そうだとすると、私の記憶もまた、必然的事実についてのものであり、正しいはずなのである。しかし、最近ではそれも揺らぎつつある。資本主義が高度になるにつれ、その社会的矛盾も一層大きなものとなり、ついには共産革命が起こる。そのはずなのだ。この世界において共産主義国家は次々の破綻したが、それはそもそも資本主義が十分に高度化する前に発生したものであるから、もとよりイレギュラーな存在であった。だから、今共産国家がないことはそう不自然なことではない。そう、おかしなことではないのだ。おかしいのは、全く共産革命の機運が盛り上がっていないことである。資本主義の高度化に従い、労働者の抵抗も激化する。そうして革命へと至るはずなのに、この世界ではすっかり労働者は資本家に飼いならされている。労働者は日々窮乏化しているにも拘らず、何等の抵抗も示さない。ただ絶望して死ぬのみである。絶望、そう、絶望だ。彼らの絶望は私の絶望でもある。共産革命が必然でないとすると、私の記憶が謝っている可能性が生じてしまう。だから私は祈るように――無神論者であるのに!――手記を付けている。記憶が揺るがぬように、そしていつの日か、共産革命が起こって私の記憶の正しさを担保してくれるように。共産革命だけが、私の個人的な希望なのである。共産革命が起こらねば、私は狂人になってしまう。来る日も来る日も、私は自分が狂っていないことを確認しようとしている。その都度「私はまだ狂ってはいない<はず>だ」と結論する。しかし、あくまでもそれは<はず>に過ぎない……


……馬鹿馬鹿しい話である。誰も読まない手記にどうして手記を付ける言い訳を記さねばならないのか。私は誰かに手記を読んで欲しいのかも知れない。そして、私の明晰かつ一貫的な思考を知り「あなたは狂ってなどいない」と言って欲しいのかも知れない。だが、恐らくそれは不可能だろう。まず第一に、手記は人に見せる性質のものではない。第二に、一般人なら当然狂人扱いするだろう。いや、現にされている。そして第三に、心理士ならばこれを見て、きっと内心を悟られまいとする笑顔を向け、そして私の話を聞きつつも時折極めて適切に話を逸らすだろう。彼らは私の「心の傷」に理論上正当と解される方法でアプローチし、そして私に「現実」と向き合うよう仕向けるに相違あるまい。彼らは実のところ私の話など聞いていない。いや、もしかしたら「ちゃんと聞いている!」などと悲鳴のような声をあげて抗弁するかも知れないが、同じことだ。彼らの頑なな「確信」はただ存在するのみで何かに基づくわけではない。思うに、彼らこそ患者なのではないか? 少々の思考能力があれば、自らの確信など容易に疑い得るところである。ちょうど私のように。私が正気であるかどうかは別として、思考能力は残っていることを示すのがこの懐疑ではないか。特に疑うこともなく目の前の人間を「専門家としては狂人と思料する」と言い切れるような人間のどこが全うなのか。まぁそれは良い。かような非科学的な人間は私の世界にはいなかった。そういう妄想演繹法を駆使する人間は、共産主義体制に必要でないのである。それは人民を惑わすアヘンに過ぎない。宗教などと呼び「教え」の名を与えることすら、我々は恥じねばならないのである。


 それはさておき、私はそもそもどうしてこの世界に来てしまったのか。この世界で日々薄れる記憶を維持するのには限界がある。一刻も早い帰還か、又は共産革命が起こってくれなくては、私が私でなくなってしまう。帰還のためには、原因を探る必要があろう。ところがこれが皆目見当もつかないのである。私は何時ものように起床の情報を党本部に送った後、出勤しようとするところ突然この世界に飛ばされてしまった……と思う。何しろあまりにも唐突な出来事であったため、記憶が些か曖昧なのである。これはいけない。原因に迫る重要な事実であるにも拘らず、根本的な記憶が曖昧では、どうにもならないではないか。そこで私は手記をつけ、記憶を守ろうとしているのであるが、流石にこちらに来たばかりのころは気が動転して、それどころではなかった。そのため、このようにやや曖昧な記憶を頼りにせざるを得ないのであるが、しかしこの記憶を前提とするにしても、依然何が起こったのかはまるで不明である。はっきりしていることは、私が手記を付けているこの手帳の異常である。私のこの手帳は、恐らく私と共に前の世界からこの世界へと持ち込まれた物の一つであるのだが、どういうわけかこの世界に飛ばされる以前の記述が全くない。なるほど、私はそう頻繁に手帳を利用する人間ではなかった。こちらの世界でもそうであるが、手帳は時代遅れになりつつあったからである。しかし、そうはいっても重要な出来事くらいは書き込んでいたはずであるのに、どうしてこの手帳は真っ新なのか。それは何等かの手掛かりであるようにも思えるし、同時に元の世界の手掛かりを奪う現象である。そして、私は法学が如何にして死滅するかということを学んでいた者であり、自然科学を学んだわけではない。それゆえ、このような現象についてどう考えれば良いのかも解らない。この世界に来てから学ぼうともしたが、どうもこの世界の科学水準では、かかる現象を説明することはできないようである。当然、元の世界に帰還する方法も解らない。


 このような状況を前にしても、日々を生きねばならない。だから、私はこれ以上の狂人扱いをされないよう、最近では元いた世界について語らぬようにしながら、このおぞましき資本主義社会に溶け込んでいる。労働の現場で行われていることは、全く以て野蛮である。彼らが文明人を自認していることは何とも滑稽ではないか。しかし、その滑稽な非文明人と、私は共存せねばならない。不幸中の幸いと言うべきか、この世界における「真の共産主義者」の手助けによって、私は亡くなった党員とこっそり入れ替わり、この世界における市民権や保険給付にありつくことが出来た。同志たちには感謝してもしきれない。そのために、彼らをだましているのではないか、という後ろめたさもある。が、真の共産主義者たる同志らのことは、またいずれ記すこととする……流石に、彼らのことを忘れることはないと思うが。


 少々長くなってしまった。この分では、手帳を使い切ってしまう日も近いだろう。手帳を使い切っても、私はこの世界で生活しているのであろうか。そう思うと、暗澹たる気持ちになる。新しい手帳を使っても、私は記憶を保つことができるだろうか。それとも、手帳を読み返して「こんな妄想をどうして抱いたのか」などと考えているのであろうか。ああ、共産革命は何故起こらないのか。どこでどう、この世界の歴史は狂ってしまったのか。或いは、向こうの世界の時空が何故捻じれたのか……考えても仕方あるまい。今や私には「必然」的な革命か「偶然」の帰還を待つほかないのである。

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