拉麺、或いは華麗なる暴力

 カレーとラーメンのどちらを食べる方が革命的か。そんなことを考えているうちに夜を迎えてしまった経験、ありませんか? 私にはありません。何故なら、迷うまでもなく両方食べる方が革命的だからです。豚骨とスパイスの混ざった香りはまさしく暴力的であり、周囲を瞬く間に制圧します。実に、革命とは暴力なのです。それゆえ、カレーとラーメンは双方揃う方がより革命的なのです。しかし、これだけでは革命とは暴力であることの論証が抜け、片手落ちと言わざるを得ません。そこで、これから革命と暴力について皆さんにお話しします。


 さて、暴力の話です。国家は暴力を有しています。そして国家は我々の運動を、暴力を以って抑圧しようと図ります。それゆえ、国家の暴力が我が方のそれを上回らない限りは、革命など到底為し得ません。したがって我々は暴力を持たねばなりません。まずは身を守る暴力、次に、権力を奪取するための暴力です。民主的革命などナンセンスです。仮に民主的な手続が採られたとしても、それは民主的な方法で暴力を我々の手中に収めただけのことです。逆に、如何に民主的正統性を有するといっても、例えば軍隊が非協力的であれば、その政権基盤は脆いでしょう。民主的勢力が暴力によって倒された例など、枚挙に暇がありません。ですから、我々は必ず暴力を得なくてはなりません。暴力のみで良いとは言いませんが、民主的正統性のみで革命を成し遂げられるというのは、絵空事です。それゆえ、革命とは暴力なのです。


 それでは暴力とは何でしょうか。無理やり言うことをきかせることでしょうか。それとも殴る、蹴る、撃つなどの有形力の行使でしょうか。どれも間違ってはいません。それらはいずれも暴力の典型です。しかし、突き詰めていうならば、暴力とは「死」です。敵の死であり、自分の死です。生物は死を恐れます。それゆえ、最終的には死という結末が用意されていると知れば言うことを聞くのです。殴る、蹴る、撃つなども、死に至る可能性であるからこそ恐れられるものです。翻って、革命戦士となるためには死を乗り越えなくてはなりません。敵の暴力に怯えているようでは、闘うことなど到底できないからです。勿論、敵の死を恐れるようでは論外でしょう。このように、暴力を得るということは、死を乗り越えることが前提となっているのです。


 我々は暴力を得なくてはならない。そのためには死を乗り越えなくてはならない。そのことがお解りになられたのでしたら幸いです。そして、カレーとラーメンを食べた私は現在、死を想わせる暴力的腹痛を乗り越えようと闘っております。
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