テキストのつくりかた

 お柔らかい話をしているつもりがついつい革命の話題になってしまうのですから、共産趣味者というのは恐ろしいものですね。どうもこんばんは。今日はテキストサイトらしい滑り出しを試みてみました。折角ですのでもう少しテキストサイトの話でもしましょうか。といっても、別にテキストサイト界隈とやらについて話すつもりではありません。ですから、正確に言うとテキストそのものについて、それもテキストのつくりかたに重点を置いてお話ししましょう。その方が皆さんにとっても興味深いのではないかと思います。


 さて、まずテキストサイトについてです。テキストサイトの定義については一人一説、諸説が乱立しているところですので詳述することは避けますが、少なくともコンテンツの一に何かしらのテキストが用いられているという点については異論がないところでしょう。そうすると、テキストサイトの管理人というのは必ずテキストを書かなくてはならない、というこれまた当たり前の話になります。さて、それではテキストを書く、というのはどういうことでしょうか? それは自分の思考を言語を以て表現し、これを伝えるということです。もっというと、言語という記号によって表現・伝達すること、ということができるでしょう。


 スターフカはそれほど記号論に詳しいわけではありません。しかし、物事を叙述することとは何か、という点についてはそれなりに心を砕いてきたつもりです。それは特に崇高な使命感があるわけでもなく、また夢があるからというわけでもありません。ただお喋りが好きなだけです。おしゃべりが好きだからこそ、上手に話したいし、書きたいのです。そして、上手に話す、上手に書くということは、上手に表現することであり、上手に伝えるということです。それはある種の技術だということができるでしょう。技術であるならば、試行錯誤を伴う練習が無い限り身に着きません。


 しかしそのような精神論を説かれても困る、という方も多いでしょう。私もそうだと思います。どちらかというと、どういうことに気を付ければ良いのか、ということを聞きたいものでしょう。そういうわけで、やたらと長い前置きになって恐縮ですが、これから私が気を付けていることを述べたいと思います。


 まず、大前提として、読者は記号を見ることしか出来ない、ということをよく理解しましょう。あなたの頭の中を直接のぞけるわけではありません。そして、記号は単語くらいならばそこそこ正確に伝わりますが、これが記号と記号の関係を伴う文になってくると、途端に考えられる意味内容が増大し、伝わりにくくなります。更にこれが文と文の関係になれば、なおさらそうでしょう。


 そこで、文章にはある程度の構造を持たせなくてはなりません。序破急でも起承転結でも、その辺りは何でもいいですが、文脈のない記号が並んでいても、読者にあなたの思考を伝えられないからです。ですから、私はこの点にある程度気を遣っています。「演習」の文章がしばしば4段落で構成されているのも、この起承転結を意識して書く練習として便宜的に行っていたものが癖になってしまったものです。私としては、構成を意識して書くという意味で悪くない方法だとは思っています。


 次に、同様に文脈の問題となりますが、文と文の関係を解りやすくした方が良いでしょう。そのためには接続詞の利用が効果的です。また「これ」とか「あれ」のような指示語を使う場合も注意を要します。指示語と指示される語が離れると、それだけ何を指すのか、という可能性が増えてしまい、読者に内容が伝わらなくなります。


 それから、何か結論を述べたい場合には、よっぽど常識的なものでない限りは、簡単にでも良いので理由を付すべきでしょう。そして、理由というものは読者に理解できるものでなくてはなりません。そのためには、論理を飛躍なく積み重ねて、疑問を抱かないような常識にまで辿れるようにする必要があります。論理を積み重ねるためには、前段落で述べた通り、文と文の関係――もっというと論理関係――を明示することが有効です。何故なら、読者も解りやすくなる上に、筆者の側も自ずと論理関係を意識するようになるからです。私は自分の専攻の問題もあり、この論理関係の点には気を遣います。論理の飛躍が無いか、対応する理由が付されているか、理由は説得的か、そしてそれらは明示されているか。そういうところが安定していると、読み手も安心して文章を読み進めることができるのです。逆に、論理に飛躍があったり、自分の知らないことを前提として語られる文章は意味が解らず、読む気が無くなっても仕方がないでしょう。


 さて、それでは飛躍の無い論理とは何でしょうか。この点については、まず全体構造として三段論法が基本となるでしょう。大前提と小前提、それに結論というアレです。人間は必ず死ぬ、ところでソクラテスは人間である。そのためソクラテスは必ず死ぬというものが良く例にあがります。もっとも、ソクラテスなんて持ち出されても困るかも知れません。それはそうです。しかし、我々が物事を論ずるときには、頻繁にこの論法を使っています。あの店はコスパが悪いからダメだ、というときには「店の良し悪しの判断では、コスパが優先されるべきである」という前提があります。そして、現にあの店はコスパが悪い。ゆえに、あの店はよくない、という論理を暗に採っているのです。もっとも、実際上は、この三段論法の前に問題提起があることもしばしばでしょう。上の例でいうと「あの店どう?」というようなものです。問題提起がある方が読み手に取って親切であるとは思います。


 ところで、大前提が単一の論理で成り立っているとは限りません。コスパが何故優先されるべきなのか? という疑問は残るでしょう。ですから、この場合には更に論理を積み重ねることになります。理由づけから結論、更に理由についての理由という具合に、常識にまで遡るのです。この辺りは何も三段論法の形式に当てはめる必要は無いかもしれません。演繹ではなく、帰納によって前提を導くことは、自然科学ではむしろ普通であろうと推測します。或いは、ある仮定をおいて、仮定に反すると矛盾が出るから、というような論法もあるでしょう。


 もっとも、先ほどのコスパが何故優先されるのかという問題は、究極的に価値判断に行き着きますから、最終的に相手を説得できるかどうかは別だと思います。しかし、少なくともこのように論理を重ねれば、相手はあなたが何を考えて「あの店はコスパが悪いからダメだ」と言ったのかを理解できます。そして、理解できるならば、そこにコミュニケーションの可能性が生まれます。それは同意かも知れませんし、批判かも知れません。後者ならば議論に突入することになりますが、しかしそれは単なる口喧嘩ではない、もう少し生産的なものになるでしょう。例えば、最後の価値判断だけが問題となっていると判明したのであれば、そこで議論を打ち切ることができるのではないでしょうか。まぁ、論理についてはこれくらいにしておきましょう。


 論理なんて不要だ、私は感覚を伝えたいのだ、という人もいるでしょう。しかし、その場合でも何故そのような感覚を持ったのか、ということは読者にとって引っかかるかもしれません。或いは、わざと論理関係をぼかすということも技法として考えられます。それは私もその通りだと思います。それは想像の余地を残すということであり、私がこれまで述べてきたこと、つまり正確に伝えるということとは相反する要請です。ですから、以上に述べてきたことと反対のことをすれば、それは実現されるのではないかと思います。勿論、良い余韻の残し方とか、そういうものはまた別だと思いますので、そこは各自研究してください。


 他に考えるべきことは、まぁ些細なものです。同じ文末があまり続かないようにするだとか、頭の中で読み上げてみて引っかかるところがないか確認してみるだとか、その程度のことです。これらも美しい文章という観点からは重要だと思います。しかし、これまで述べてきたことほどには重要ではないでしょう。語彙の問題も同様です。語彙は本でも読んでいれば自然と増えますし、覚えた語彙を使ってみることによって表現のための語彙としても使えるようになるでしょう。


 以上述べたところを一言でまとめるならば「読み手を意識する」ということになると思います。読み手はあなたの文章しか見ない。だから、文章だけで伝わるようにせねばならない。そして、文章だけで伝わるようにするためにはどうすればいいのか、ということが、何より書き手の意識すべきことです。その視点を欠いた文章は単なる独り言です。いえ、もとより文章は独り言かもしれません。しかし、基本的に読み手にとって意味がある文章は、内容が伝わるものなのです。


 ところで、お気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが、この文章は魅力的な文章を書く手法について殆ど述べておらず、それ以前の問題についてしか触れていません。そこから先は各自が考えるべき問題ではないか、と思います。ただ、色々なことを学んでみたり体験したりすることによって、あなたの考えたことは他人にとって興味深いものになるでしょうから、後はそれを伝えるだけの問題になりましょう。文章を捻りだすだけです。もっとも、どう捻りだすのか、ということはあるでしょう。その点についてはあまり言えることはないのですが、まずは500字から1000字ほどの文章を書くことを目指すのは如何でしょうか。それから、淡々と事実を述べるのではなく「あなたの考えたこと」を書くことが肝要です。それこそが、普通は相手にとってユニークであり、興味を惹き得るからです。もっとも、よっぽどのスクープならば、この限りではありませんが。


 そういうわけで、結論としては相手に伝わるような500〜1000字の文章を書く練習をすればいいんじゃないんですか、ということになるでしょう。そのことを言うために、随分なスペースを使ってしまったと反省しています。自分の言ったことをあまり守れていない、纏まりの無い文章を最後までお読みいただきありがとうございました。
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