断章

1

 「いつやるか、今でしょ」と言う。しかし、我々が認識しているのは過去の空気の振動である。似たようなローマの言葉に「明日やると君は言う。教えてくれ、その明日は何時やってくるというのか?」というものがある。明日が来る時は「今」よりもよほど明確であろう。もっとも、我々が明日を迎える保証はない。

 結局我々にとって唯一確実なものは過去のみである。我々は常に今を掴みそこね、明日が確たるものであるかのように振る舞う。そして、軽んじた過去に復讐されるのである。

2

 マルクス・アウレリウス・アントニヌスによると、最大の復讐とは相手と同じことをしないことだという。だがそれは相手に伝わるだろうか。相手に伝わらないのであれば、ただの自己満足ではないのか。

 もっとも、復讐とは所詮自己満足のためにあると考えることもできる。それならば、どうだろう。何もせずに済ませた方が害悪の総量は少ない。だが古来そこで人は何かが失われたように感じてきた。それは正義と呼ばれるものであろうか。害悪には反作用としての害悪で応じなくてはならない。反作用としての害悪によって害悪が中和されると。

 しかしそれは満足という感情に裏打ちされた不思議な掛け算に過ぎない。もっとも、我々はそのように出来ており、そのように出来ているからこそ今まで種を存続させられたのかも知れない。我々は復讐する。復讐を避けたくば、害悪をも避けよ、と。

 かくて定言命法は有用なる威嚇に堕し、正義は功利に取って代わられる。

3

 人は二度死ぬという。一度目は肉体の死、二度目は記憶の死――だが覚えてきたまえ。王を殺すことを望むならば、二度では足りない。王は二つの身体を持つからである。そして二つ目の身体は<肉>の体ではない。それは政治的身体であり<王>という概念である。

 それゆえ、王の記憶は二重に殺されなくてはならない。王は三度死ぬのである。

4

 表現と叙述はどう違うか。表現は伝達を必要としない。前言語的な対象を言語に変換した時点で表現は成立する。それを文字なり音声なりに乗せ、伝達する働きを叙述と言う。したがって、人は誤って知覚し、記憶に騙され、捻じ曲げられた表現を行い、そしてそれをあらぬ方向に動く筋肉によって叙述するのである。



ログへ戻る トップへ戻る