党は仲良しクラブではない

 同志諸君にとっては今更かも知れないが、スターフカ(総司令部)は今一度革命戦士としての心得を説く。我々は決して仲良しクラブではない。革命戦士は勿論互いに連帯せねばならない。しかし、そのことは馴れ合いを意味するわけではない。馴れ合いとは何か? 馴れ合いとは、責任の相互放棄である。利害関係者が通謀して、すべきことをせず、又はすべきではないことをすることであり、更にはこれらを指摘しないことである。かような状況下において、一体誰が革命戦士たり得るか。言うまでもなかろう。革命戦士になるためには、相互批判とそれに基づく総括が必要である。つまり、同志の間には、革命的合目的性に沿う一定の緊張関係が求められる。これは何も親愛の情と矛盾するものではない。ただ、親愛の情を抱くがあまりに、反革命的な行為や思想を看過してはならないということである。


 どうにも同志諸君の中には緊張関係を放棄した馴れ合いか、さもなくば対立かでしか人間関係を捉えられないような者がいるようである。これは単純な図式で、解り易い。しかし解り易ければそれが正解というわけではない。寧ろ、かかる対立をどのように止揚するかというところに弁証法の意義が見出される。そして、まさに科学的社会主義はこの弁証法に支えられる。即ち「今あるものは合理的であり、合理的であるが故に存在し得る」ことから、逆に「今あるものも合理性を失えれば破棄され得る」のであり、社会的矛盾が高まることによって現在する社会体制もまた破棄され、そして両者を止揚したところの新しい体制へと突入するのである。封建制の矛盾を止揚したものがブルジョワ的資本主義体制であるとすれば、資本主義の矛盾を止揚したものが社会主義である。搾取するか搾取されるかという状態を、搾取無き社会へと止揚・解決することは可能と言わねばならない。


 しかし、それは抽象論ではないか、という反論もあろう。それは命題として何等誤っていない。だが抽象論がないのに、一体何に基づいて具体論を語ろうというのか? 突然具体論を語りだす人間も、結局は語られざる抽象論に現実を当てはめているのである。ここから、具体論への反駁には2通りのものが考えられる。語られざる抽象論からして反対なのか、それとも抽象論には賛成するが、現実に当てはめると所論の如き具体論にはならないはずであるというものである。この議論の階層を捉え損ねると、議論は錯綜する。我々は革命的民主主義者であるから、物事は議論を以て決めねばならない。そのため、我々は正確な議論の作法を身に付けねばならない。そうでなくては「議論」とは名ばかりの口喧嘩か、或いは談合にしかならない。これは最初の「対立か、馴れ合いか」と重なり合う。そして、この択一的関係が誤りであることは、これまで論じたところから理解できるところであろうと思われる。


 諸君が一定の緊張感を持ちつつも、友好的かつ同志的な関係を維持し、革命戦士となってくれることを期待している。総司令部からの訓示は以上である。

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