日を生きる

 日照時間が短い国では、自殺率が高まるのだという。そのことについての科学的な証明はさておくとしても、確かに冬の精神は脆い。秋は物憂いが、冬は端的に憂鬱が募る。男は暗い部屋をうろつきながら、冬の憂鬱を実感していた。実感はしていたが、同時に疑問も覚えていた。曰く
「おかしい。日照時間が影響するほど僕は部屋から外に出歩いているわけでもないのに、一体どうしてなのか。しかし、冬ゆえに、とでも言わねばこの憂鬱は説明がつかない。なんといっても、毎年なのだ。僕が部屋で勉強もせずぐるぐると歩き回っているのも、決して北風が吹きこむからではない。太陽のせいにでもしておかねば気が済まないような憂鬱に駆られているからなのだ」
と。このように長々と呟きながら部屋を歩き回るのであるから、確かに異常をきたしているといえよう。そして、彼は異常に気づいていた。ただ直す方法が思い浮かばないだけなのである。それどころか、自らに異常がないかどうかを確認し続けることによって、すっかり消耗しきっていた。異常が判明した今は、理由の解明に追われ、一層異常の度合いを深めている。太陽のせいなどとフランスの作家めいたことを言っているのも、ひとえにこの作業を打ち切りたいが故なのである。もっとも、フランスの作家は太陽がまぶしかったことを理由にし、彼は太陽がまぶしくないことを理由にしているのであるが、この辺りはアルジェリアと日本の違いなのであろう。


 ところで、コーヒーをよく飲む者は自殺率が下がるのだという。男もコーヒーを好んだ。自由なる人間は、コーヒーを飲むのか、それとも自殺するのかを選ぶことができる。多くの人間はコーヒーを選ぶであろうし、コーヒーは自殺を遠ざける。両者は背反する関係とまではいかなくとも、人生においてはかなりの程度異なる意味を持っているといえよう。


 そのような事情を知ってか知らずか、男はコーヒーを淹れることにした。台所にはコーヒー用の注ぎ口の細いヤカンがある。これで湯を沸かしながら、フィルターと粉の用意をする。粉は出来合いのものである。また、コーヒーを淹れるのにわざわざネルを使ったりもしない。そうはいっても、一応インスタントというわけでもない。この辺りが、彼の「不徹底な凝り性」を象徴しているようであった。そして、そのような性格であるから、物にもならぬ趣味が多数ある。ある意味勉強もその類といえようか。いや、勉強ばかりは物にならねば将来に困るのであるが、憂鬱症のくせに変なところが楽観的なせいで、どうにも真剣になろうとはしない。
「僕のような人間をクズというのであろう」
男は、実におもしろげに呟いた。なるほど、コーヒーは憂鬱を遠ざける。まだ飲んでもいないのに、男は少々機嫌を直していた。そういう上機嫌な時は大体何か失敗をするものであるが、どうやらコーヒーもそれなりの味に仕上がったようである。それなりのコーヒーに、それなりの牛乳を入れ、男はコーヒーを一気に飲み干した。砂糖は入れない。それも男の中途半端なところなのであろう。


 かくして自殺を遠ざけた男は、懸案であった勉強に取り掛かることにした。今なら気分も昂揚しているし、勉強も進むであろう。夜まで眠くなることもあるまい……そんな浅薄な考えからである。確かにコーヒーは気分を昂揚させる。しかし、同時に繊細さを失わしめる。果たして、男は紙面で展開される精密な議論についていけなくなり、直に苛立ちを示し始めた。彼は間違いなく、死を遠ざけた代償を支払っている。そして、彼は「夜まで眠ることができない」のである。中途半端な男が、眠れずさりとて起きて有意義な時間を過ごせるわけでもない、そんな中途半端な状態に立たされていた。何もかもが中途半端だ。こうして死から逃れたものの、生きているのか死んでいるのかさえ判らない。何もかもが中途半端だ。何もかもが……だが、それを修正するには、些か遅すぎる。男は、徹底して不徹底であった。中途半端だと断じながらも、抜本的な対策を取らない。いや、取っても無意味だと、中途半端に先を読んでしまうのである。その正しさは、試してみなくては判らないはずなのであるが、先を読むという行動を取るだけの賢さはあっても、合理的な結果を選ぶだけの思慮深さは無かった。男はどっちつかずな自分をひどく嫌った。嫌いつつも、それによって死を選んだり破滅的な行動を取れなかった。或いはアルジェリアの男のように、太陽を浴びればこうはならなかったのであろうか? 人殺しとしてでも、他人から喝采を浴びるような舞台に登れたのであろうか? 無意味な思考は、一層彼の神経を蝕むのであった。しかし、彼は夜まで眠ることはできない。


 時に、夜の精神は脆い。夜に書いた文章の酷さに愕然としたことは誰にでもあるだろう。夜の精神は些細なことに突き動かされる。衝動は全く非常識である。昼間は辛うじて合理性を保っていた者であっても、夜になれば変わってしまう。もしかすると、中途半端な合理性なるものも一掃されるかも知れない。それもきっと太陽のせいなのである。太陽が出ていないから、何とも愚かしい行為に手を染めてしまうのである。アルジェリアの男は太陽によって殺人を犯した。日本の男は、太陽が出ていないことによって、何をしでかすのか。それが明らかになるのは、これから5時間ほど先のことであろうが、私はそれを記そうとは思わない。どうせ大したことはしないのである。大したことなどできないから、今日まで生きてこれたし、また生きてきてしまった。それだけのことである。明日もコーヒーか死であれば、コーヒーを選ぶであろう。そのような緩慢な日々を過ごし、最後にただ与えられたものとして死ぬ。結局彼は、コーヒーによって死を「遠ざけた」のみであり、完全に回避したわけではないのである。実に、何もかもが中途半端なのである。

 しかし、日々死を辛うじて遠ざけているという点では我々も彼と何ら変わらない。だからこそ日々を生きねばならないのであるが、彼にはそれができなかった。我々は今日を生きることができたか?


――恐らく、そのような確認をわざわざしない人間こそが「今日を生きた」のであろう。

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