ログ(2014年3月)

3月26日:自由とかいう刑罰

 更新もサボっていますし勉強が進んでいるとも言い難く、日々自業自得のフラストレーションを溜め込んで生活しております。どうもこんばんは。先日は卒業式が行われまして、無事無能の烙印たる某学位を頂戴しました。ちなみに成績は産業廃棄物級でして、将来の食えなさを保証するかのような院生生活だったと思います。楽しいことは楽しかったですけどね。親の金使ってそれかという話です。

 そういうわけで、晴れて今後はニートです。司法試験まではニートで、その後は司法浪人というこれまた公害の原因にでもなりそうなモノになるのですが、それでも卒業は卒業です。この支配からの卒業とかそんな歌詞もありますが、きっと支配されている方が遥かに楽なのでしょう。自由だとより多くのことを決定せねばなりません。そして決定は確実に脳みそを疲弊させます。決定事が続くと人間は疲れ切ってしまうといいます。そういうところから脳が鍛えられるという面もあるのかも知れませんが、反面で疲れて切った脳の出す結論は、やはり産業廃棄物級でしょう。早々の埋め立て処理が望まれます。

 ところで話は変わるのですが、春のショットガンさんが更新報告を自粛するそうです。まぁそれ自体は個人の決めることですのでその決定についてとやかく言うつもりもありません。では何故ここで言及したのかと言うと、それは当該記事の中で「VIPでテキストサイト」について触れていたからです。私は最近あまり更新していませんし、それ以上に避難所で議事を整理したりといったこともしていません。それはそういう行為に虚しさを覚えるようになったからです。

 政治学には(恐らく経済学なんかから借用したのでしょう)「公共財は手に入らない」という有名な命題があります。皆のためになる行為は、誰かがやればそれだけで自分の利益になります。ですから、わざわざ自分がやる必要がなく、損得勘定のできる人間は誰もやらない、ということです。あの企画における様々な事務はそういうものだと認識できている人が多数派だろうとは思いますが、駄々や中傷を繰り返すの匿名論者の存在はそれだけで、敢えて非合理な行動に出てまで公共財を維持しようとしている人を消耗させるのに十分です。

 私はそういうのに嫌になってルール作りを主導しました。しかし、恐らくですがルールを快く思わない人もいるのでしょう。その場のノリでやっていた頃は良かったと感じる人もいらっしゃるでしょう。しかし、人が増えれば増えるほど不規則発言を行う者が発生する確率は高まり、不規則発言が増えるほどに話が停滞し、決定ができなくなる確率も高まります。昔は上手く行っていたというのは、単にその地雷を踏まずに済んでいただけのことであり、活動期間が長くなればそれだけ地雷を踏む確率も高まるものだと思います。ルールというものは、そうした地雷原をより長く歩けるようリスクを回避するための仕組みです。それは集団である以上仕方のない存在です。それを叩くのは恐らく簡単でしょう。では、様々な試行錯誤が為された上でああいうことになったということを踏まえてもなお代替案を出すことは簡単でしょうか。私はそうでないと思います。何故なら「存在するものは合理性ゆえに存在する」という言葉はそう軽いものではなく、現状を覆すならば、より合理的な提案をせねばならないからです。そして、匿名論者の発言にそうした合理性があったかというと疑問です。それどころか、何等の理由づけもなされないか、或いは理由にならない理由が付されているのみのものが目立ったように思います。

 繰り返しますが、自由は大変なものです。複数人の自由が関係するともっと事態は複雑になります。ある者の自由に基づく行動が、別のある者の自由を損ない得るからです。ルールはその調整のためにあります。その調整の仕組みを破壊したり潜脱し、暴力的な自由を享受しようと思う人の存在は実に憂慮すべきでしょう。ただ、先にも述べましたが、憂慮することは脳を疲弊させます。そして、適正な環境は公共財です。だから、憂慮する人がいなければ消滅します。そして憂慮する人にとって公共財の維持は疲弊するだけで不合理です。行き着く先がどういうものかということについては、もうお解りのことかと思います。

 ですから、もし何かを決めたくて話し合いをするのであれば、皆を消耗させない方法でやってください。会議のルールが嫌ならば、せめてその趣旨に則ってコテハンを付けるなり何なりして下さい。毎回毎回同じことで揉めることにはもううんざりしています。そして、こういう「議論」には何等期待していませんし、手を貸すつもりもありません。別にお前の手なんか借りたくないから、というのは結構です。でも、もう積極的に関わらなくてもいいやと考える人が増えていると感じませんか。そして、そういう人はかつて人並み以上のやる気を見せていた人だとは思いませんか。そうした人が企画から距離を置く現象は、企画にとって好ましいものですか。そういう企画に、魅力はありますか。

 私からは以上です。

3月16日:司法戦線異状なし

 今日も死屍累々、大量の答案戦略上の誤り及び論点についての純然たる誤りを繰り返し「やらかしたノート」が拡充されております。同志諸君、こんばんは。テキストサイトなんてやっている場合じゃありませんね、本当。

 時に、私が茗荷谷の学生であるかのような話が一部にありますが、私は男でありますから、彼の大学には入れません。いえね、まあ私が女性に間違えられることはありますよ、ネット上では。一人称は常に「私」ですし、丁寧語が目立ちますからね。そして大体私が男だと知ってチャットの相手がガッカリするという展開になります。私は全く性別について触れていないのですが、まぁ別に触れる必要もないかな、と。寧ろ男なら一人称は「俺」じゃなければならないなんて小学生並みの話ですよ。実際私は小学生の頃、一人称が「僕」では笑われるので「俺」にしましたが、ああいうのは面倒ですね。まして大人になりゃ「私」とか丁寧語はむしろ当然ですし、ネットの世界は書き言葉ですから、ええ。

 そういうわけで、私は別に積極的にネカマ行為をしているわけではありませんが、それはさておき2chや避難所でお嬢様スレ化を目論んでいることは内緒です。

3月11日:人生の価値と自由についての戯言

 そろそろ春が来ても良い頃だと思うのですが、昨日今日と寒い日が続きましたね。同志諸君、こんばんは。スターフカです。天気の話は枕として丁度いいのですが、インターネットを介して行う場合における欠点は、その天気が共通していない恐れがあることでしょうか?

 いつもならばここで「さて共通の話と言えば」という調子で、話題がが共通していなければ興味を惹ける可能性は薄い、みたいな話をするところですが、今日は止めておきましょう。そういう説教臭い話は大好きなのですが、毎回それでは飽きるでしょうし、何よりその話、最近した気がします。同じ話ばかりすることも認知があやふやな老人ならば仕方のないことなのでしょうが、私はまだ人生の1/5ほどしか過ごしていない(したがって125歳まで生きるつもりである)ので、そういうのは老後の楽しみにしておこうと思います。孫及びひ孫は私の説教を大いに聞いて、そしてクソみたいな話を聞かされたことに対する慰謝料としてお小遣いを貰うと良いでしょう。

 お小遣いと言えば、今日は祖母の命日です。祖母は震災の翌日、震災とはこれっぽっちもない場所で、全く関係のない原因によって急死しました。私はその年の正月に例の如くお年玉を貰ったのですが、それは今日に至るまで大事に保管されています。私はどうやら祖母の生命保険により300万円を得たらしいのですが、私としては300万円よりも祖母に貰う1万円や2万円のお年玉やお小遣いの方が有難いものだったな、と思うことが度々あります。我が祖母は人の良いところよりも欠点が気になって仕方のない、割と人を苛立たせる才能に長けた人でしたが、同時に周囲はそこに悪気が無いことも了解していました。葬式に多くの人が押し寄せた(学校の先生という事情もある)ところからも、人望があったのでしょう。私もしばしば他界した祖父母の夢を見ます。大体は夢の中で祖父母が既に鬼籍に入った人間であることに気づきます。それでも夢の中の自分は非合理をあっさりと受け入れるようで、祖父母と雑談を交わし、そして夢が覚めるにつれて祖父母の姿が見えなくなり、夢であることに気づく――ということもよくあるものです。まぁしかし、そんなことはどうでもいいんです。同志諸君にとっては他人事でありますし、私もこんな話が皆に意味があると思っているわけではありません。では何が言いたいのかと申しますと、それは、人間たるもの常に人に影響を与えつつ生きている、ということなのです。勿論、私と祖父母は直径の血族という特別な関係にありますから、当然に影響を与え合うことでしょう。しかし、葬儀に集まった人々はそれぞれ祖父母とは別の関係を持っていたはずです。ある者は教え子、ある者は友人、ある者は同僚――人間同士の関わり合いは多様な様相を見せます。そして、それぞれの関わり方に応じて、それぞれの影響を、それぞれの印象を残し、そしてこの世を去るのでしょう。

 テキストサイトというのは、そういう影響の与え方の一つの形だろうと思います。そして、その形は直接の知り合いよりも広範に影響を及ぼし得るものであろうと思います。一方で、書き手-読み手の関係は、前述の教え子が友人、同僚、血族と比べて希薄なものにならざるを得ません。だからこそ話題の共通性や、語る内容の意義というものが問題となるのでしょう。翻って、交友活動の進展に伴い、そういうものの必要性は若干薄れたり、或いは意識せずとも相手に合わせることができるようになるのでしょう。それもまたテキストサイトに妥当する議論であり、ために固定ファンを得たサイトというのはしばしば読者との馴れ合いに走り、それにも拘らずサイトとアクセス数を維持できるのでしょう。

 私は皆さんに「あいつは奇妙だが面白い奴だった」という形で記憶されたいと思います。ですから、その関係が多少希薄であることを常に意識しつつ皆さんにお話することでしょう(勿論、仲良くなりたくないというわけではありませんが)。一方で、一度に多くの人に影響を与えることができますし、また反応があれば私も影響を受ける――つまり、そこに交換が成立する余地があります。それは私の生き甲斐でありますが、同時に最終的な戦果を確認するためには死なざるを得ず、そして死んではそれを確認できないという矛盾には少々困らされています。もっとも、人間の価値は死んでみて判る、という言説からすると、畢竟それは確認出来ない物であり、気にするだけ馬鹿馬鹿しいのかも知れません。

 結局説教臭い話となってしまいました。老後の楽しみが一つ減ってしまいましたし、私は皆さんにお小遣いを配ることができません。その点については大変申し訳なく思っておりますので、皆さんには対価として私の葬式に参加する権利を与えましょう。そうそう、葬式と言えば私は香典を生前に得るための仕組みを考えたことがあります。私は香典を、遺族ではなく他ならぬ、祀られるべき存在である私の手に収めたいのです。そこで、香典先払制度を編み出し、しかも法的に正当な結論を得べく、平均寿命に基づいて中間利息を控除する計算まで行いました。そうすると、現時点で香典先払いを受けた場合、私が貰える額は650円ほどでした(香典は1万円であり、私は平均寿命まで生きるとする。また、利息は民法に従い年利5%で計算する)。まぁそれで思ったのですが自分の価値を生前に計るような馬鹿な真似は止めて、好きに生きるのが良いんじゃないんですかね。評価は死後皆さんが勝手にすれば良いでしょうし、私はどうせ死んでいるので、きっとそれに拘束されないのでしょう。評価なんて死ななきゃ解らないからこそ、我々は自由でいられるのではないでしょうか。翻って、そういう自由には問題があるとして、制限しようとしたのが死後の世界を観念する宗教及び道徳なのかも知れません。ですが、熱烈な自由主義者(如何なる意味かは措く)である私は、恐らく一定の道徳を自らの意思で考慮に入れつつ、好きに生きることでしょう。

 私の願いとしては、そうした生き方に共感する人が一人でも多くいればいいな、ということです。それは憧れの対象でありたい、ということなのかもしれません。つまるところ、アイドルって本当に良いものだなとアイマスとかラブライブを見ながら思うといういつもの話なんです。

 あ、なんか早々にお前の評価を確定してやるという雰囲気なので、もう寝ますね。

3月2日:Monacoinに見る対価性

 昨日の記事に若干の補足をしようと思うのですが、別に私は好きに書くのはいけないとかそんなことを言うつもりは毛頭ありません。好きに書いていいと思います。ただ、それをどう捉えるかは読者次第なので、読んでもらえても読んでもらえなくてもそれは仕方がないですよね、というだけのことです。そして、読者の反応など気にしない、というのも一貫した立場でしょう。そういう人が尊敬を集めることもあると思います。私はただ「皆に読んで欲しいけれども特に何もしません。そして、読んでもらえないことは不当です」という立場のみに疑問を呈するところです。どれかが欠ける主張であれば、それは筋が通っているといえるでしょう。

 ま、昨日の補足はさておき、今日は何の話をしましょうかね。そういえば最近Monacoinを掘り始めました。いい性能のPCを使っているわけではないので、現在のところ多分電気代の方が高くついています。でもなんか面白いんですよね。多分現金でやるともっと面白いと思うのですが、その面白さはリスクを伴うので、ちょっと余裕のある場合に限られるでしょう。それで、このMonacoinを手に入れる方法なのですが、制度の維持のために必要な計算力を貸すほかに、物を売ったり、皆さんからの乞食行為をすることによっても増やすことができます。例えば私とお話しする権利などを売ることが可能です。可能ですが、需要が無ければ当たり前ですが誰も買いません。その辺は結局テキストサイトと同じでしょう。いえ、寧ろ一応通貨の形を取る辺り、一層需給関係が鮮明に表れることが予想されます。Web投げ銭は拍手に取って代わられましたが、Monacoinは今のところ子供銀行券なので、コンテンツへの評価の形として全く普及しないとは言えないかも知れません。まぁ、普及しないの方に賭けた方が分がいいとは思いますが。

 コンテンツへの対価と言えば、今日は私のファンとか何とかという人の東京案内をしてご飯を頂いてきました。ファンと言うか、友人の親(直接会ったことはないが、度々私の言動を見聞きしていたようである)なのですが、どういうわけか私にはこの手の人がたまにいます。面白いところではクラスメイトの配偶者とかですかね。まぁその、日ごろから自分をコンテンツとするような行動を取っているためにそういうことが起きることもあるのでしょう。ですから、二通道新聞社「自分を売る」路線は不可能じゃないと思います。後は彼自身にどれだけコンテンツ性があるか、というところでしょうね。それがモチベーションになるならば面白いことじゃないでしょうか。

 程度の低い自慢話になりますが、以前Twitterをやっていた頃はフォロワーが3500人くらいいました。特別の立場にあるわけではない男が、おしゃべりだけでそれだけ人を集められれば、まぁそこそこじゃないのかと思います。ただまぁ、リスクが無いわけでもありませんし、自分を売る路線というのは中々にしんどいことのようにも思えます。別にそれを万人がやるべきとは言いません。やりたい人がやればいいんです。ただ、仮に対価を求めるならば、それなりの需要のあるものじゃないと対価を貰いようがないだろうという、ごくごく一般的なことを申しているだけです。

 それでまぁ、私としては自分の文章を読んで欲しいなと思います。ですから、面白いかどうかはさておき、類型的に見た場合に読者を置いてけぼりにするような話はあんまりしないようにと考えています。逆に今日の文章は別に読んでもらわなくていいやと思ったときには適当に書きますし、そういう文章を読んで「今日の文章は興味ねーな」と思われても、それは甘受すべきことなのでしょう。固より他人の感情に口出しなどできないことですしね。

 他人の思想になら口出しできるぞと心の中の同志が言っていますが、その話はまた今度。今度というか、何時もしている気もしますが。あ、まぁ共産化すれば需給は計画されますがね。

3月1日テクロス3月赤まむし

 3月ですね。試験が迫ってくるわ過去ログには新しいページを設けなくてはならないわで非ッ常に面倒な気分になります。あ、どうもこんばんは。皆さんお元気ですか。元気があれば何でもできるそうですよ。私はそんなに元気がないのですが、ま、何かしら出来るんじゃないんですかね。

 何かしらできるんじゃないんですかねとか言っていますが、目下やらねばならないことは勉強でありまして「何かしら」に勉強が入ってくれないと困るのですが、実際のところ勉強以外にやることってそんなにありません。せいぜい家事くらいでしょうか。その家事も手を抜こうと思えば抜けますし、現に手抜きし放題で家も若干混沌とし始めているのですが、その辺りは、まぁ。元気ないんで。ええ。元気があれば何でもできますが、元気がない場合には何でもできるわけではないわけですね。だから家事をしなくても良いというのは勿論いいわけですし「できる」ことと「やらなくてもよろしい」ということはあまり関係が無い話ですので、良い子はちゃんとやりましょう。私は良い子じゃないので、事実の問題としてやりません。あ、そういえば予備校には行きました。いつも通り無能と生き恥を晒しました。

 ところで、実はここまで私は自分の書いた文章に反吐が出そうです。こんな文章は「だからどうしたんだ」の典型例でして、私は正直よっぽど面白おかしい人間か、或いは親しい人のものでない限り、近況報告の類には興味がありません。世の中そんな人ばかりじゃないらしいので、私もそういう人ではないのだろうと勝手に認定した上で、延々と私の知らない人のどうでもいい話(例えば友人の友人に関する別に面白くもない報告)をされることもありますが、まぁ、大体そういう事態に直面すると私は不愉快そうな顔をしていると思います。何故不愉快なのかと言うと、それは話し手が「自分がしたい話」をしているだけで相手のことを考えていないからですね。そりゃ自分のしたい話をしてくれてもいいですよ。でもそれってただの自慰行為じゃないですか。そして自慰行為を見てもらうにも金がかかるんですよ。だから話し手はせめて「聞いて貰っている」という意識を持つべきでしょうし、聞いて貰うためには「ちょっと聞いて欲しいのだけれども」みたいな言葉を前置きするなり、他人でも興味を持ちうるような共通の話題を振るなりすべきなのではないか、と思います。少なくとも私は「私の話を聞いて当然だ」という態度は個人としての存在を踏みにじるものだと考えています。 端的に言うならば、意思に反することをやらせているのですから。

 テキストサイトにも同じことは言えるでしょう。読んでもらって当然だという考え方は書き手の傲慢であり、読み手を侮辱した態度だと思います。もっとも、そういう風なことを言いだす人もきっと本心では読んでもらえるような文章を書きたいのでしょう。ただ、それが出来ない。調子が悪いのかも知れませんし、能力が無いのかも知れません。前者であれば正直なところ、休んだ方がいいでしょう。後者であれば休まず書くべきでしょう。そして読んでもらうことをお願いすべきでしょう。どっちもしたくない。面白いものを書く努力もしないけれども読んで欲しい、ということは他人の意思を無視しない限り成り立たない考え方です。繰り返しますが、自慰行為を見てもらうにも金がかかるんです。合意を要するんです。ただで見せようってのはただの露出狂であり、公然わいせつで逮捕される犯罪者です。だからオネイニーを見せるなら見せるなりに面白おかしいオネイニーをするか、或いは相手も楽しませる――つまりセクロスをするかを選ばなくてはなりません。テキストサイトはセクロスなんです。まぁ当然ですが、セクロスである以上は事前に合意を得なきゃいけませんが。でもそりゃそうでしょう? 一個の独立した人格であるところの他人を巻き込むってのは、そういうことじゃないですか。

 そういうわけで私とセクロスしてくださいというのを今日のオチにしようと思ったのですが、冒頭で述べた通りあんまり元気がなくてセクロスするのも面倒な気がしてきましたね。いや別に局所的に元気がないという話じゃないので、不能を晒しているわけじゃないんですが。


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