ログ(2014年7-8月)

7月10日:七夕と夢

 七夕に降る雨を催涙雨というそうですが、よくよく考えてみると織姫も彦星も寿命が数十億年くらいあるので、実は1年なんてあっという間、我々でいうならば秒単位の話なのではないでしょうか。そうだとすると、数秒に1度会えないくらいで涙を流す両者は正真正銘のメンヘラ。もう人間は金輪際七夕なんて行事に手を出さずに関わり合いにならない方が良いとさえ思えます。同志諸君こんばんは。諸君の精神は無事ですか?

 七夕の話を続けますと、私はこの七夕のお願いが少々苦手です。私が子供の頃、大人たちは短冊に夢を書かせようとすしたからです。しかし私には夢がありませんでしたから、これが中々辛いのです。夢? 叶いもしないものを書いて何になるのか。子供の時分から冷めて嫌な人間だったと思います。でも本当は夢を持ちたかったような気もします。してみると、私は何かに憧れることに憧れていたのでしょうか。幸いにして今はある程度現実的な目標を掲げておけば済むので助かっています。いえ、勿論長期的な夢のようなものも持った方が良いのでしょうが、その点についてもそれなりにぼんやりとした絵を描けるようにはなったので、夢の問題に悩まされることはありません。強いていうならば、前にも言いましたが皆さんの憧れになるような面白おかしい人生を送りたいとは思います。

 そんなわけで私は面白おかしく生きるべく面白おかしい人間になりたいのですが、どうにもそういう話をすると私は既に面白いかは別としておかしいと言われます。いや、私が言う「おかしい」というのは「可笑しい」の方で、頭が変の方じゃないんですが、連中もそれなりに読解力のあるはずなので、多分それを解った上で言っているのでしょう。これは実に許し難い。私の夢はそんなものじゃないんだ! あ、やっぱり私には夢がありますね。ある日奴隷の子孫と白人の子孫が丘で語り合うほどのものかは知りませんが――でも、キング牧師の夢も今や大体叶いましたから、私の夢も叶う可能性くらいはあるのでしょう。もっとも、キング牧師が生きている間にこの夢が叶ったわけではないので、その辺は難しいですね。死んでから憧れの対象になる人なんて山ほどいますから。そうはいっても、私は最近過去のことを楽しそうに話しているそうですから、それなりに楽しくは生きているのでしょう。司法浪人待ったなしの無職ですけどね、ええ。

 そして以上の自分語りとは全く関係なく、今年も短冊には「南進統一」と書き満面の笑顔を浮かべています。そうなんです。自分が何になりたいかを大人の好みに合わせて問われない限り、七夕は大好きなんです。

8月17日:月記

 同志諸君へ。大変ご無沙汰している。更新を怠業した理由は色々あるが、まずは自己批判しておこうと思う。大変申し訳なかった。その上で理由を述べると、まず第一に個人企画をやって何となく燃え尽きた感があったことに加え、そこから連続的に私生活が忙しくなったということがある。忙しくなったと言っても所詮私生活であるからして、富士山に登っただとか、祖父が脳梗塞で倒れ元気そうだが何言ってんのか判らないとか帰省していたとかそういうアレなのだが、とまれかくあれあまり更新が捗る事態ではなかったのである。

 さて、この日記はどうもほぼ1月ぶりのものになるらしい。日記というからには日々の出来事を記すものであろうと思われる。してみると、1月も空いてしまったのであれば月記なのではないか、という気がしなくもない。そして、日記が日について記すものであれば、月記は月について記すものであろう。そこで今から月について話しても良いのであるが、あいにくと私は文系であり、あまり月について面白い話は出来ない。いや、文系でも実は出来なくはない。例えばうさぎの模様が如何にして我が国に根付いてきたかという話だけで本が一冊出来る。同様に、我が国や他国の文化と月の関係だって、調べれば幾らでも語ることが出来よう。竹取物語において月を眺めることは狂気につながるので良くないこととして描かれているだとか、lunaticは同様に狂気を意味するだとか。或いはロシア語において月はЛуна(Luna)であり、これはラテン系の語彙であるが、他方でウクライナ語ではМiсяць(misyats')という別の単語が用いられ、これはロシア語においても「月」を意味しているが、それは「1日」「1月」「1年」といった暦の単位の意味としてである。こういうところからも月を基準として暦を作っていたことが読み取れるのであるが、考えてみると英語のmonthとてmoonと語源を同じくするのであるから、そこまで回り道をする必要があったのだろうか? 等々……

 このように月について語ることは文系とて可能である。ただ、私は法学部出身であるから、今のような話も専門外であるし、法律と月の関係は今のところ、それほど面白いものがあるとも思えない。もしそれを見つける日がくれば、その時に何か書いてみようとは思うが、差し当たっては民法における暦の計算方法くらいしか思いつかないのである。また話を転じて理系の天文に関しては、先日JAXAのオープンキャンパスに出かけてきた。そこで見た展示のうち、月には竪穴が3つ見つかっており、そのうち1つは地球の側にある、という話は興味深かった。何でも、穴の中であれば温度の変化が小さいと予測されるから基地を作りやすいとのことである。そして、基地を作るのにふさわしい環境であるかどうかは、ロボットや機材を投げ込んで調査することを予定しているらしい。なるほど確かに富士山の風穴も年中同じ気温であるから、月とてそうだろうとの予測は立つ。それにしてもよく月に竪穴が開いているなど見つけてみたものだ……などと思った。その竪穴の写真がまた中々鮮明であったりするので、いよいよ技術の進歩は大したものだなどと、文系にありがちな感想を抱いたりもしたのであるが、これも言うならば「だからどうした」という話である。JAXAの職員の話ならともかく、お前の感想は大したもんじゃないと言われればそれまでであるが、JAXAには友人や先輩もいるので、興味深い研究をしているということを宣伝するならば、その限りで意味はあろうか。私には夢が無いが、JAXAで講演した友人は昔から変わらぬ夢を持ち、将来は自分の開発したロケットで自分が宇宙に行きたいのだという。その夢に向かって計画的に頑張って来た姿にはただただ称賛するほかない。

 同期たちは何事かを成し遂げつつあるように思える。一方私は、大学でも大学院でも何事をも成し遂げられなかった。しかし今年はあまり深刻になることもなく、楽しい夏を過ごした。内向的な日々を送って来た過去からすると、今年のような過ごし方が良かったのではないか。それで結果が付いてくるものなのではないか、という気もする。もう3週間ほどで司法試験の結果が出る。恐らく今年はダメだろうと思うが、来年はきちんと合格し、そして私も何事をかを為したいものである。そのために、今ここで暗い気分になる必要は、あまりないだろう。

9月7日:それでもテキストは成立する

 不合格発表まであと2日と迫った今日この頃、皆さんは如何お過ごしであろうか。私はもちろん何のやる気もない。ポツダム宣言……いや、ブレスト=リトフスク条約を受け入れる準備はとうに出来ている。今後同期の人々は社会人に向かってまっしぐらであろうし、私は社会主義に向かってまっしぐらといういつも通りの日々を送ることであろう。それが証拠に、今日は宇野弘蔵の『経済原論』を読んだ。文章はあまり読みやすいものではないが、簡潔にまとめられている点は評価されるべきであろうと思う。ちなみにこの宇野博士であるが、実はマルクス経済学者ではあるがマルクス主義者ではないと言われている。博士の目論見はマルクスの経済学を経済の理論として純化させることであり、この中においては社会主義革命の歴史的必然性は放棄されている。もっとも、この『経済原論』における博士の立場は社会主義イデオロギーを放棄しつつもなお少々社会主義に同情的であるようにも見える。それは1964年という時代的な制約でもあるだろうし「労働力の商品化」を問題とするマルクス経済学の帰結であるともいえると思われる。が、今日は別に一読しただけの宇野理論について書こうと思ったわけではない。

 否定神学というものがある。神は何者であるかと考える際、我々は「神は〜ではない」と言うことは出来る。例えば、神は人間ではない。また神は善でもない。それは人間の捉えられる限りの「善」によって無限の存在である神を規定することができないからである。しかし〜でない、ということは言うことが出来る。否定神学とはそのようにして神を把握しようとするものである。これは結局神は我々の概念を超えた何かということに帰結するのであるが、重要なのは神を否定しようとしているのではなく、肯定しようとする営みであるところであろうか。

 私は別に今日自分が書きたい事柄について、宇野理論ではないし今日の晩御飯でもない……という風に否定の言辞を羅列して「そう、私が書きたいものは、何か語り得ないものなのである」と言いたいわけではない。語り得ぬものについては沈黙していればそれで良い。そうではなく「何かを書きたいのだが、何を書きたいのか解らない」という気分――恐らくテキストサイト管理人ならば誰もが囚われるのではないかと思われるが――を言い表し、出来ることならばその対処法の一端を示唆したいと思っているのである。それはいつものテキストサイト論であり、メタな話題を展開しているようにも考えられる。そして、その話題についてばかり書いていても、果たしてテキストサイトなのだろうか、という疑問もある。

 だがその疑問はしばし措こう。私は何について書きたいのか解らない状態でこの文章を書き始めたが、ここにきて私はどのように話を続けようかと考えている。つまり、何かを書きたいという欲求を満たすことに成功しているのである。「何かを書きたいが、話題がない」という問題の解決は「それでも何か書く」というところに求められる。それは矛盾にも見えるだろう。対象が無いのに何を書けというのか? それは確かにそうだ。しかし、対象が無いというのは厳密には誤りである。書く対象などどこにでもあるし、語り得ぬものでなければ、何についてでも我々は語り始めることが出来る。問題となっているのは「書きたい」という意欲だけである。そして、その意欲はとにかくキーボードを叩いてみれば案外湧いてくるものである。やる気の出し方は、何でもいいから簡単な作業を始めることだという。それと似たようなものではなかろうか。そこにあるのはある種の飛躍であり、決断である。そしてその先に日々の継続があるのだろうし、逆に日々の継続によって個々の文章を書く作業が始まるのであろう。

 さてそれでは次に、この手の文章が果たしてテキストサイトのテキストなのだろうか、ということについて少々考えてみたい。これは私も疑問に思ったところであるが、私としては読者がそこにある文章を読み終えた際に、何かを感じ、何かを考えたのであればそれでよいのではないか、と結論したい。何故ならテキストとは書かれたものであり、書かれたものの価値は読まれることにあり、そして読まれることというのは、テキストが何らかの影響を与えることだからである。かくて書くという作業は、コミュニケーションの一種となるのであるが、その試みはどれほど成功しているのであろうか。また、成功しているかどうかを知る必要があるのであろうか。この点についてはいずれ改めて考えたいと思う。


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