ログ(2014年1月)

1月29日:間奏と私信

 同志諸君、いかがお過ごしであろうか。当方は大変に眠い。眠いのでサイトを更新している。眠くないのであれば、試験勉強でもしていることであろう。


 そういうわけで、試験に関してのお知らせがある。私は試験を目前に控えている。具体的に言うと、明後日から2週間ほど試験期間である。そういうわけで、いつも眠い時間帯の気分転換として行っている更新も、流石に控えようと思う。2週間ほどはいつもにもまして適当な更新が為されるかも知れないが、一種の間奏と思ってご容赦願いたい。ちなみに、間奏と私信というのは『善悪の彼岸』における「箴言と間奏」のパクリである。


 次に私信について。ここ数日に2件ほど文中リンクを見つけたので、その返事をしたいと思う。(以下、外交的要請により丁寧語)まず1件目は春のショットガンさんから。えー、何でも昨日のテキストのつくりかたに衝撃を受けて、前日に書いた日記を修正されたとのことです。なるほど。実は当該日記を読んであまりおかしいと思うことはなかったのですが、確かに修正された日記の方が文同士の繋がりが良くなっていると感じます。ただ、これまでも春のショットガンを読んでいて変な文章だと感じたことは特にありません。あとは、起承転結も文章の全体構造の一例に過ぎないので、そこまで拘ることもないかも知れないと思いました。何より実は「演習」のテキストもあまり起承転結に則っていません。もっとも、オチを付けるような話においては、確かに起承転結は有力な構成でしょうし、それは修正されたようなテキストにおいても同様でしょう。とまれかくあれ、反響があったことには大変うれしく思っております。


 2件目は二通道新聞社さん。謝罪文を読みました。当方としては、別に怒っているわけではありませんので、そんなに謝らなくても大丈夫です。ただ、誤解を招き得るところと思ったまでです。こちらこそ文中リンクなど貼ってどうもご迷惑をおかけしました。(外交的要請による丁寧語終了)


 私信は以上である。時に最近VIPテキストサイト界が何やら革命情勢なのではないかという感じを受けることがしばしばある。当方としては大変望ましい傾向であると思うが、こういう時こそ革命的警戒心を一層強く持たねばならない。古来多くの者が事態が好転した時に足元をすくわれて失敗してきた。革命は三歩進むために二歩撤退することもあり得る。今後も油断なく、着実な前進を遂げなくてはならない。


 何の面白みもない記事であるが、本日の更新はここまでである。なお、私信は何時でも受け付けているので、遠慮せずリンクしたりメールしたり掲示板に書き込んだりすることを勧めたい。反革命分子の密告も、勿論歓迎である。

拉麺、或いは華麗なる暴力(1月27日)

 カレーとラーメンのどちらを食べる方が革命的か。そんなことを考えているうちに夜を迎えてしまった経験、ありませんか? 私にはありません。何故なら、迷うまでもなく両方食べる方が革命的だからです。豚骨とスパイスの混ざった香りはまさしく暴力的であり、周囲を瞬く間に制圧します。実に、革命とは暴力なのです。それゆえ、カレーとラーメンは双方揃う方がより革命的なのです。しかし、これだけでは革命とは暴力であることの論証が抜け、片手落ちと言わざるを得ません。そこで、これから革命と暴力について皆さんにお話しします。


 さて、暴力の話です。国家は暴力を有しています。そして国家は我々の運動を、暴力を以って抑圧しようと図ります。それゆえ、国家の暴力が我が方のそれを上回らない限りは、革命など到底為し得ません。したがって我々は暴力を持たねばなりません。まずは身を守る暴力、次に、権力を奪取するための暴力です。民主的革命などナンセンスです。仮に民主的な手続が採られたとしても、それは民主的な方法で暴力を我々の手中に収めただけのことです。逆に、如何に民主的正統性を有するといっても、例えば軍隊が非協力的であれば、その政権基盤は脆いでしょう。民主的勢力が暴力によって倒された例など、枚挙に暇がありません。ですから、我々は必ず暴力を得なくてはなりません。暴力のみで良いとは言いませんが、民主的正統性のみで革命を成し遂げられるというのは、絵空事です。それゆえ、革命とは暴力なのです。


 それでは暴力とは何でしょうか。無理やり言うことをきかせることでしょうか。それとも殴る、蹴る、撃つなどの有形力の行使でしょうか。どれも間違ってはいません。それらはいずれも暴力の典型です。しかし、突き詰めていうならば、暴力とは「死」です。敵の死であり、自分の死です。生物は死を恐れます。それゆえ、最終的には死という結末が用意されていると知れば言うことを聞くのです。殴る、蹴る、撃つなども、死に至る可能性であるからこそ恐れられるものです。翻って、革命戦士となるためには死を乗り越えなくてはなりません。敵の暴力に怯えているようでは、闘うことなど到底できないからです。勿論、敵の死を恐れるようでは論外でしょう。このように、暴力を得るということは、死を乗り越えることが前提となっているのです。


 我々は暴力を得なくてはならない。そのためには死を乗り越えなくてはならない。そのことがお解りになられたのでしたら幸いです。そして、カレーとラーメンを食べた私は現在、死を想わせる暴力的腹痛を乗り越えようと闘っております。

1月25日:合理性の間

 二通道新聞社の野辺山氏から相互リンクの申請があった。非常に丁寧かつ形式的な文面であった。どれくらい丁寧な文面かということは、氏の相互リンクの手引きを見れば判ると思う。私の元に着たメールは、ほぼこのテンプレート通りである。これを読んで、どのように感じるだろうか?


 私が思うに、野辺山氏のこのテンプレートはあまり使わない方が良い。それは、明らかにテンプレートに流し込んだだけであることが判ってしまうからである。加うるに「取り敢えず丁寧だったらよかろう」という発想は、却って「私はあなたに対して興味なんてありません」という印象しか与えない。いわゆる「慇懃無礼」というものである。私も正直に申し上げると、この人は私のサイトには一切興味が無いが、色々な合理的判断もあって相互リンクを申し込んできたのだろうか、と感じた。無論、野辺山氏が実際にそう考えたかどうかは定かではないし、格別彼について云々するつもりはない。ただ、もし氏のテンプレートを使おうと思った人がいるならば、私としては良い印象を持たない、というだけのことである。


 サイト運営は所詮趣味である。然るに、氏のテンプレートはビジネスにおけるマナーに則っていると思われる(貴〜の後に様は付けないだろうとか、そういう点は措くとして)。趣味の仲間から、ビジネスライクに扱われて嬉しい者がいるだろうか。なるほど、親しい間柄でも改まった手紙を送ることもあるかも知れない。手紙においては、普段よりも丁寧な言葉遣いをするのも普通である。しかし、それにも程度というものがある。過ぎたるは猶及ばざるが如しという故事成語もある。そこを誤って、第一印象を損ねるのはあまりにも惜しい。が「どこまでならば許されるか」という判断は非常に難しいものがあることもまたその通りである。その通りではあるが、易きに流れる方が却ってリスクなのではないか、と私は思う。


 そして、以上のような反応が類型的に見られることは、故事成語や熟語になり人口に膾炙した表現があることから明らかである。そうであるならば、そういう「読み」も、合理的判断の対象であろう。感情的な反応も、類型的に予想されるならばまた合理性の問題になるのである。その際に、合理性と合理性の間でどのような判断をするか。それは、或いは感覚の問題なのかもしれない。しかしその感覚にも相応の根拠が必要なのは、言うも更なりというべきであろう。


 なお、最後に老婆心ながら申し上げるが、リンク報告をした後にあの文章を上げるのも如何にも拙いと思う。好き好んで「あなたへのメールはテンプレートに従って出しました!」と告白する必要もないだろうし、人をハウツー物の実験台のように扱ったと受け取られても仕方がないのではなかろうか。「他者の人格を手段として用いてはならない」という言葉もある。それは、凡そ人付き合い一般に妥当するのではなかろうか。

1月23日:ふわふわサイト

 昨日はサルベージという手抜きをした。そこで今日は手抜きではないことをしようと思い、足抜きでもすればいいのかとかそんな妄言を吐こうとしたところ、ふと何やら自分が卑猥なことを言おうとしている気がしてきた。今日は更新を思いとどまった方が良いのではないか。このように階級的意志が囁いているようにも感じられる。ああ、そうだ。卑猥なことで思い出した。卑猥な帝国主義者と思しきサイトからリンクを頂戴したので、こちらからも貼り返そう。我がサイトは如何なる態様の帝国主義にも屈しない。勿論、断固としてこの包茎帝国主義者に対峙していく決意である。


 ところで当サイトはよく「知的」であると言われるのであるが、これはまあ何というか、中らずと雖も遠からずという感じである。そういう文章ばかりになっているのは、中の人がお堅い文章ばかり読んでいて、お柔らかい文章を書くのがあまり得意ではないという、テキストサイトとしては中々に致命的な欠陥を持っているからなのではないかと思われる。小説の類も決して嫌いではない。私もしばしば読む。森見登美彦のわざとらしい大仰な表現には大笑いしているし、ふへへとか言いながらドストエフスキーを読むこともある。しかし私が推したいのは何といっても『光の雨』である。これは原作も映画も勧めたい。勿論共産趣味的な観点からもそうなのであるが、映画には何とあの山本太郎が、連合赤軍のトップとして現れる。これは傑作だ。私は山本太郎が反原発運動を始めたと聞いた時「やっぱりそうだったか!」とガッツポーズしたものである。ちなみに、私はこの『光の雨』と「けいおん!」のパロディで「かくめい!」というものを思い付き、わざわざOPの替え歌"Cakumei! Girls"まで作ったものであるが、放置しているうちに本当に蛸壺屋が氷菓で光の雨をやってしまったので、ちょっとがっかりしている。やはり行動力のある者が勝つものであろうか。はたまた私の創造性が欠如していたのであろうか。恐らくどちらもそうであろう。


 他にもふわふわ時間を勝手にロシア語に訳したり、昔はバカなことを色々やっていたものである。今後もバカなことをして参りたいと思うのであるが、差し当たっては期末考査と司法試験が控えているので、ほどほどにせねばならない。それが済んだら、今度はラブライブ!を全曲赤化したいとかそういう著作権に触れそうなことばかり考えているのであるが、どうだろうか。きっと帝政が倒れるとか言い出しちゃダメですかね。ま、ダメですね。


 そういうわけで、当面の目標はお柔らかい文章を書くことである。お柔らかい文章を以て同志を獲得することも革命の前進には必要だからである。

1月22日:時間の流れについて

 時間は過去から未来に向けて流れている、と一般には考えられている。だが、ある人が言うには時間は未来から過去に向けて流れているらしい。もう少し正確に言うと、そう考えた方がしっくりくるそうだ。


 確かに、出来事と自分は「遭遇する」ような気がする。そうだとすると、物事は向こうからやってくるのだから、時間は将来より流れてくることになるのかもしれない。そもそも未来という単語自体、未だ来ずなのだから、時間とはこちらにやって来るものなのかも知れない。


 だがやはりこれはおかしいようにも思える。何故なら、我々は因果律を観念しているからである。即ち、我々は現在の状態は過去のある出来事が「原因」となっていると考える。そうすると、やはり時間は過去から未来に向かって流れているのではなかろうか。


 なるほど、かような因果律は巨視的には観念できても、微視的には成立しないとも言われる。すべてが確率的にしか捉えられない以上、原因と結果なるものを想定することは困難なのではないか。それは確かにそうだ。しかし、そうだとしても、やはり未来から時間は流れてくるとすることには違和感を覚える。それは、確率的にしか決まらない以上「何も決まっていない」向こう側から何かがやって来ると考えることには、一層の無理があるように思えるからだ。


 古来から人は時間に思いを馳せてきた。キリスト教徒は時間を時tempusと永遠aeternitasに分類したという。前者は死すべき人間が生きる、有限で(というのも、天地創造に始まり最後の審判で終わるからである)虚しい時間であり、後者は神の属する時であり、無限で静的なものだとした。


 そのうちに、アリストテレスやアヴェロエスの影響により、西洋の人々は中間項を措定するに至った。それが永生、aevumなる観念である。これは、時間が終わりなく続くことを認めつつも、aeternitasの如く静的なものではなく、変化を伴う動的なものと捉えるものである。このような観念を教会は公式に受け入れたわけではなかった。教義も変わらず、やはり時間は最後の審判で終わるものとされたが、それにも拘らず、人々は恰も時間が終わりなく続くかのように振舞い始めたのである。このような観念は、行政の手続が先行して受け入れられたというが、後のこれがさらに国家体制を説明する神学にまで影響したのだから、時間の観念は我々にとって基礎的なものであるといえよう。


 そうであるにも拘らず、未だ時間とは何か、という問題に決着はついていないと聞く。それは哲学者が決めればよいのかも知れないし、物理学者が決める方が適しているのかも知れない。が、哲学者が物理を、物理学者が哲学を語り始めると大体反発を招くし、しばしば碌でもない結果を招く。まして我々のような素人では、暇つぶしの雑談がいいところだろう。


 こうして、我々は時に思いを馳せながら、限りある時間を無駄に消費するのである。どうにも人間は永遠に思いを馳せたがるが、自分が有限であることには鈍いようだ。それが自分の今の有りようを規定していると考えると、やはり時間は過去から未来に流れている気がする―もっとも、これは結論の先取りであるようにも思えるが……

1月21日:停車場と祖国と革命と

 ちゃうねん。いうてな、そう簡単に関西弁で物なんて書けへんねん。な。私もな、関西出てから7年経っとる上に両親とも関西人やないから、元々あんまり上手やないんや。しかもな、皆関西弁いうたら吉本芸人を思い浮かべるやろ? あるいは2chで見るのは、なんJ辺りの言葉遣いやろか。気持ちは解る。そうやけど、例えば「せやな」ってのは大阪市内とかそっちの方の話し方なんや。私のおった北摂では「そやな」に近い発音をする。例えばさんま見てみ。さんまは大笑いしながら「おー! おー! あー!、そうやなー。んー。あー、ほうかー」って言っとるやろ。あれはさんぱが奈良の人やからな。私も北摂から奈良に越したから、あれは解るし、同じ学校におった南の方の子は「せやな」とか「できひん」とか言うんやわ。私は「そやな」「できへん(又はできん)」の方をよく使った。まあな、いうてな。東京来ても関西弁を隠している人には気づくし、兵庫と大阪の方言くらいは聞き分けられるんやけど、如何せん普段標準語で(東京新方言ではなく、規範的な標準語)話す癖があることもあって、喋るのは得意やないんや。ここの関西弁かて、見る人が見ればおかしいところはあると思う。話したらもっと露骨やろな。アクセントの位置とか、吉本のマネみたいになってしまうんや。でも一方で、私が助詞をよく抜かしたり、或いは「敷く」を「ひく」と発音しとったり、その「ひ」が口蓋化した音やったりするところから、辛うじて元は曲がりなりにも関西弁話者やったことが判るかも知れへんな。そうそう。真似した関西弁とそうでないものを区別するには、助詞の頻度を見ればええんや。その辺り、上手く助詞が省略されていると「あ、これは関西弁解る人が書いたんやろな」と思うわ。まぁそういうあれやな。


 同志諸君、如何お過ごしだろうか? 私は今日の夕食を考えてはや2時間になる。上の関西弁は某所で方言が使われていたので、ふとやってみただけのことである。ふとやってみたと言ったが、私は現在のところ、東京新方言から区別されたところの標準語の話者であるから、正直なところ方言がうらやまくてやったというのが実情である。私の語彙は本を読んで増やしたものであり、会話から身に着けたものではない。そのせいで「口語」というか「母語」のようなものを失ってしまった。それは故郷を失ったような感覚である。労働者に祖国は無い、という。それは間違いない。我々は海を隔てようとも山を隔てようとも連帯できるし、またせねばならない。しかし、それでは労働者に故郷はないのであろうか? そういうことではないだろう。何故なら、労働者が祖国を持たないのは、祖国たるべき国家がブルジョワに支配されているが故である。そうであるならば、精神的な意味での故郷は労働者にもある。いや、寧ろ労働者は民族的でもあるのであるから、当然に故郷があるはずなのである。然るに、私は「どこ出身ですか?」と聞かれても、答えに困る。かくて私は、対象の無い郷愁を抱えるのである。


 しかし、我々は必ずや労働者の祖国を建設するであろう。今はまだ反革命分子が潜んでいるが故に、この国を労働者の祖国ということはできない。ゆえに、我々は団結し、粛清を一層推し進め、敵のスパイ網を壊滅に追い込むべきである。そしてこの国を真に労働者と農民のためのものにせねばならない。我々の事業は歴史的使命であり、またその成功は科学的に裏付けられている。したがって、何も恐れることは無い。我々は必ずや社会主義革命を貫徹することができる。そして社会主義革命が成った その時、我々は高らかに宣言するであろう。


 私には、祖国がある、と。

1月19日:日記より……

 テキストサイトの日記とは日記であって日記ではない。何を言っているのかさっぱり解らないと思われるかも知れない。私もそんなこと言われたら、ちゃんと単語を使い分けろよと指摘するであろう。しかしこれは日記の持つ複合的な性質に由来するものである。そのため、これからそれを解説をしようと思う。


 まず、テキストサイトにおける日記と称されるものは、小学校などで書かされた日記とは異なる。言うまでもないことであろう。今日あったことを淡々と書かれて感想を述べられても「ふーんそれで?」と思うのは当然のことである。なんせ、人はただの他人に大して興味が無い。これが気になるあの子の日記であれば、それがたとえ割と普通であっても一点一画逃さず読もうとするかもしれない。しかし、テキストサイトというのはそういうものではない。読者と筆者はそういう閉じた関係にあるのではなく、誰もが読む可能性があるという点で開かれた関係にある。無論、人気のあるサイトになってくると、その筆者のことが気になる、ということもあるだろうから、完全に峻別できるかというとそうではないのであるが、そういう地位を占めるサイトはそう多くない。そういう風になるまでは、筆者の今日の出来事なんて書いても仕方がないであろう。


 しかしそうは言っても、日々更新される記事を「日記」と呼ぶのが通常ではないか? という疑問は尤もである。何故なら、やはり日記は日記だからである。日記には今日の出来事のみを書くのではない。今日考えたこともまた日記には書きつけられる。多くのテキストサイトで日記と呼ばれているものは、この今日考えたことではなかろうか。そして、今日考えたことというものは、場合によっては他人の興味を惹き得る。勿論、考えになっていない考えなど読んでも仕方がない。論拠が示されていない思い込みを延々語られても鬱陶しいだけである。これが現実の人間関係において展開されるのであれば、嫌々ながらも聞かねばならないかも知れないが、仮想空間ではあっさりと無視できる。嫌なら見るなというか、実際に見ないのである。


しかし、そういう「お話」や単なる「感想」ではなく、論拠の示された文章であれば、反論の余地が生まれる。或いは、納得することもあろう。ただの感想に止まらない文章は、何らかの意味で他人の心を動かす。それは「理由なんかどうでもいいが、俺がこう思うんだからこうなんだ」ではなく、議論に一般性があるからである。ここでも、開かれた人間関係が前提とされているし、もっというと、そこには意思疎通の可能性がある。「理由など無い。俺はこう思う」では独り言である。そして、みんな独り言には大して興味がない。Twitterは独り言という建前であるが、それでもウケる発言と言うのは読み手のことを考慮に入れているものである。結局のところ、読み手を意識しているかどうか、という点がテキストサイトにおける日記か否かを分けると考えられる。そして、そこでは一般性とコミュニケーションの可能性が大きな要素として斟酌されるべきであろう。なお、ネタと称されるものも、広い意味では「今日考えたこと」に含まれると理解される。何故なら、読み手の存在を前提としているからである。


 そういうわけで、私は今日考えたことを書きつけた。しかし、これが他人から読んで面白かと言われると、多分に怪しい。もしかすると真姫ちゃんのソロが何度聞いてもK-POPなのはやっぱ中の人なんですかねとかそういう話の方が興味深かったかもしれないと自己批判している。最近自己批判することが多い。私のハートはちょっとピンチである。

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