ログ(2013年11月)

11月30日:パルチザンとして

 共産趣味者たるもの、不退転の覚悟などしない。パルチザン戦には常に撤退と転進が求められる。そこには現実との格闘のみが存する。これと思い定めたのであるからという拘りを――「覚悟を捨てる覚悟」をせねばならないのである。それこそが、最後的な目標達成のための覚悟と言える。


 同志諸君は覚悟を捨てられるか。

11月29日:踊ったふりをしてる

 自らの生活を顧みるに、ただその気怠さに飲まれ、踊った振りをしているのだ、などと気取ってみたくないわけでもない。しかし全く冷静さを欠くとまではいえない私はここで気付くのである。私、踊り方なんて知らない。


 「振り」なんてものは方法を知らねば出来ないものである。別に本物をそっくり模倣できる必要は無い。しかし、その概要くらいは理解しているものであろう。しかし、私は知らない。踊り方なんて、踊らされ方なんて知らないのである。結局、私は勝手に生きているのである。周囲の反応を気にしていないわけではないが、それは参考資料に過ぎない。判断をするのは自分であるし、その責任もまた自分に帰する。恐らく、他人に迷惑をかけた際の損害を填補する必要を除けば、我々は自由に生きることが認められている。いや、自由に生きる他は無い。価値なるものは自分が判断することこそあれ、絶対的に定まっているわけではなかろう。


 或いは、人はそれを恐れるのかも知れない。私はどうすればいいのか、と。そんなことは知ったことではなかろう。知ったことではないが故に自由なのである。その受け止め方は色々である。ニヒリズムだといって忌避する者もいれば、ニヒリズムであるとして歓迎する者もいよう。


 どうしても何かに倣いたい、踊った振りをしたいというのであれば、私と一緒に共産化しよう。諸君の道は拓けている。見よ、暁の星を。あれこそは輝ける人類の未来、全ての人が持てる力を十全に発揮でき、差別も抑圧もない社会である。我々は革命の尖兵として、権力との殲滅戦をやり抜かねばならない。それは仮借なき白兵戦だ。権力が倒れるか、我々が倒れるかの二つに一つしかない。ああ、なんということか。権力との和解等あり得るはずもない。何故なら国家は階級対立を誤魔化すための道具に過ぎないからである。階級対立を終わらせるためには、決戦しかない。そして、それは歴史的必然として、我々の勝利に終わるのである。反動どもの何と哀れなことか。彼らは歴史の掃き溜めに放り込まれる。歴史は彼らを顧みない。社会は彼らを顧みない。諸君は何れの側に立つのか。よく考え、賢明な判断を下してほしい。


 もっとも、これはこれで、やってられない毎日だと思うが。

11月26日:ソウルは燃えているか

 明けるな平壌の夜という北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国、以下共産趣味的観点から「共和国」と呼ぶ)の名曲がある。共和国の歌には珍しく、政治思想とは関係が無い――ように見える。しかし、しかしである。私が見たところ、この歌は反革命歌謡なのである。


 平壌は革命の首都にして、かつては金日成・金正日同志が住み、今は金正恩同志がいらっしゃる。彼らは革命の太陽である。然るに「夜」とは何か? 夜とは、太陽の沈んだ後のことである。革命の太陽が住まう街に、どうして夜が来ようか? 明けるな平壌の夜――まさに、米帝侵略者の願い、南朝鮮傀儡分子の望みである。我々は、平壌の夜など知らない。平壌は常に真昼である。平壌には、今日も自由朝鮮の光が満ちている。平壌の夜とは形容矛盾と言わざるを得ない。


 ところで南朝鮮はどうなのか、という疑問をお持ちになられた方もいるかも知れない。南朝鮮は勿論真っ暗である。それは世界史の上で米帝の無謀な努力によりほんの一瞬だけ存在を許された哀れな存在であるにも拘らず、常夜の国である。彼らは夜の住民であるが故に、風紀は乱れに乱れ、もはや人間社会の様相を呈していない。民衆は米帝の傀儡として人間の尊厳を失って生きている。彼らは実に闇の中にいる。それゆえに、南朝鮮には革命の灯が必要なのである。革命の灯とは、尊敬する指導者金正恩同志の領導である。それを拒むのであれば、彼らには無理やりにでも光を与えねばならない。そうだ。戦火という明かりをだ。ソウルは燃えているか? 停戦ラインの兵士たちは統一の合図を待ち望んでいる。


 共和国の人民は決して「明けるなソウルの夜」とは言うまい。共和国は、ソウルの長い夜が明けることを願っている。決断するのは、南朝鮮の人民なのである。

11月24日:共通テーマ「好きな歌」

 共通テーマが定められているので、気まぐれに計画に基づいて乗っかることにする。


 当サイトに求められている「好きな歌」といえば、もはや社会主義シリーズの他あるまい。私が人生で最初に買ったCDは「がんばろう!日本の労働歌ベスト」であった。この労働歌というのは、いろいろ調べると面白いものがある。まず、労働歌は左翼的な運動で用いられたにも拘らず、軍歌の替え歌が多い。「富の鎖(社会主義の歌)」は「日本海軍」の替え歌であるし「メーデー歌」は「アムール川の流血や」「歩兵の本領」の替え歌である。これらには勿論理由がある。即ち、当時の労働者には大声で歌う習慣が無かった。しかし、みんな徴兵で軍隊に行った経験はある。それゆえ、軍歌のメロディーはよく覚えていた。しかも軍歌は単純で歌いやすいものが多い。このような理由で、左翼運動であるにも拘らず、軍歌のメロディーを高らかに唱和する、やや奇妙な現象が発生したのである。

 更に興味深いのは、日朝の共通性である。戦前朝鮮半島は日本領であった。そのため、朝鮮の革命家は日本の革命家と交流があったのであろう。北朝鮮共和国(注1)の革命歌謡は日本のものと共通するものが多い。朝鮮中央放送で流される「赤旗の歌」は日本でも「赤旗の歌」として歌われている(これは軍歌ではなく、クリスマスの歌の替え歌であるが)。先に登場した「日本海軍」の旋律も「朝鮮人民解放軍」の旋律に取り込まれている。「メーデー歌」もまた、共和国で同様の趣旨で歌われる。無論これらは「偉大なる金日成大元帥がお作りになられた」ということになっているものも多い。


 このように、労働歌は帝国時代の内鮮の革命的文化交流を今に伝えている。これこそまさに「インターナショナル」というべき事態ではなかろうか? ちなみに「インターナショナル」というのは、左翼の聖歌ともいうべき歌である。右翼でいうならば「青年日本の歌」に相当するだろうか。インターも「青年日本」も大変な名曲であるので、一度お聴きになられては如何であろうか?


 名曲といえば、東側の国歌は出来の良いものが多い。中でも旧ソ連の国歌は世界で一番格好の良い国歌と言っても過言ではなかろう。どれくらいそれが格好いいかというと、ソ連崩壊後一旦廃止されたのにも拘らず、同じ旋律でロシア国歌として復活したくらいである。また、中国(中華人民共和国)国歌も躍動感があり、しかも中国らしさを残した名曲である。東ドイツ(ドイツ民主共和国)の国歌も歌詞と合わせて非常なる名曲なのだが、皆さんご承知の通りランスシリーズのセクロスシーンに用いられてしまった。私はかかる理由に基づいて、あのシーンは「ガハハ、グッドだー!」ではなく「ガハハ、グートだー!」とドイツ語を使って欲しい気分になる。


 他にも共和国の「攻撃戦だ」とか「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」「あなたがいなければ祖国もない」「嬉しいです」「千里馬のその精神、その気迫で」「米帝侵略者に死を」「明けないで平壌の夜」など、紹介したい曲はケマ高原のように連なっている。しかし、ここまで全く知らない曲を列挙されても困るであろうから、この辺りで止めることとする。


 どれか一曲を選べと言われたらやはりインターナショナルを勧めるところであろうか?

注1)北の人は自国を「共和国」と呼ぶことが多い。若しくは「朝鮮」も用いられる。北朝鮮という言い方は、自国が正式な国ではない扱いのように聞こえるため非常に嫌がる。当サイトでは共産趣味に基づいて共和国と呼ぶことにする。

11月23日:社会主義的日記生産調整

 昨日日記を更新しなかったのは、勿論日記の生産過剰を防ぐためである。資本主義は目下壊滅的な生産過剰に陥っている。我々が同じ轍を踏むことは無いだろう。そう、だから生産調整であって、決して9時寝てしまったからではないのである。


 ところで当サイトは別に共産趣味一色のサイトにするつもりではなく、ただテキストサイトをやろうかなぁと漠然と思っただけなのであるが、いつの間にか結局共産趣味になっている気がしてならない。これはいけない。いけないと思うのだが、今日は母港の文化祭に中国の人民服を着込んで突入し、その後池袋に出店したという文革レストラン「東方紅」人民服のまま行ってしまった。店員は勿論人民服なのだが、客に人民服が来るとは思わなかったのだろう。店員一同大ウケであったので、スターフカも満足である。


 それで、共産趣味の話から何とか撤退しようと思うので、今日見た劇場版まどマギの話をしたいのだが、これはこれで今度はネタバレになるので「サイコレズ怖い」以外のコメントが出てこない。まだ見ていない諸氏への同志的な配慮を感じ取っていただきたい。


 まぁなんというか、そういう社会主義に従うことにより充実した一日を送ったという社会主義リアリズム日記なので、これ以上は勘弁してほしい。どのあたりが社会主義リアリズムかというと、主に強い酒を飲んで酔っ払っている辺りと、人民服で後輩にドン引きされたという革命の前進に不都合な真実が隠されていることですかね、ええ。ではそういうことでお願いします。


 なお、同意しなかった者にはシベリアへ引っ越す権利及び義務が与えられます。

11月21日:社会主義的日記増産法

党政治局決定



1.今日の日記は絶対に面白い。

2.疑うならば前項を見よ。


以 上

11月19日:万国のテキストサイト、団結せよ!

 テキストサイトといえば文中リンクである。いや別に文中リンクではなくともよいし、今日日文中リンクなとどという手段を用いるところは寧ろ稀かも知れないのであるが、トラックバックだのなんだのというBlogの仕組みは未だによく解っていないので、最近の手法というのも同様に把握していない。そのため、取り敢えず当サイトでは「テキストサイトといえば文中リンク」ということにしておきたい。テキストサイトなる概念自体がやや古臭くなっているので、これくらいは許されるのではないかと考えている。


 さて、その文中リンクの話をしようと思う。私の記憶が正しければ、文中リンクの用法は大きく分けてふたつである。ひとつは攻撃的な文中リンクで、これはリンク先のサイトを批判(もっというと非難)する場合に用いられる。例えば
このサイトの文章は非論理的であり、しかも新入りの分際で態度がでかい。おまけに管理者名がスターフカって(笑)ソ連の大本営か何かですか。滅多打ちに遭わないうちにサイトを畳んでウラルの東にでも逃げたらどうですか?」

と、こういうものである。もっとも、このようなリンクを貰ったら、この人私とあんまり変わらない趣味をしているのではないかと疑うところではあるが、その辺りは気にしないで頂きたい。


 もうひとつは友好的な文中リンクである。やりすぎれば馴れ合いのためのリンクともなろう。過度の馴れ合いは読者不在の駄文量産にもつながるであろう。また、馴れ合いを望むならば、現代であればSNSでうんざりするほど――実際、SNS疲れなるものが報告されているそうであるが――可能である。わざわざ望んでテキストサイトをやろうというのであれば、ほどほどに控えるのが良いと思う。


 しかし、ほどほどなら良いのである。ついでにいうと、全く知り合いやら友達やら、そういうものがなくてもサイト運営を続けていくことは難しかろう。そこで、私も友好的かつ同志的な文中リンクを貼ろうと思う。今日のリンク先はねずみ色ホームページである。このサイトは、共産趣味者たる同志管理人氏が運営しており、若干数の共産趣味関係の記事と、その他の一般的なテキストが置かれている。同じ共産趣味者として親愛なる同志に対して熱烈な支持を表明したい。熱烈な支持を表明するのであるが、同時に民主的討議に不可欠な批判を許していただけるのであれば、共産趣味関係の記事がやや薄いような気がしてならない。親愛なる同志管理人が偉大なるソ連の指導者である同志スターリン式の「一歩たりとも退くな(ни шагу назад)!」の気概で社会主義的テキストサイト建設に取り組まれることを期待してやまない。


 以上のように、友好的な文中リンクを用いると往々にして自分、或いは自分らの世界の話になりがちである。それはテキストサイトにおいて過度の馴れ合いが戒められる所以でもある。スターフカ総司令部としても、自らを反面教師(この言葉は毛沢東が使い始めたと言われているので、共産趣味的である)とせよなどという表現でお茶を濁すことなく、自己批判するとともに、国際テキストサイト運動の進展に一層の努力をして参る所存である。


 万国のテキストサイト団結せよ!

11月18日:テキストサイトでもやってみる

 VIPでテキストサイトをもう一度やろうというような企画を見つけたので、私も参加してみようと思いこのようなものを作った。サイトのデザイン等は旧サイトの流用である。HTMLの知識は中学校以来止まっているため、実に古臭いものになっていると思う。


 それはさておき、テキストサイトである。このようなものが流行ったのはもう10年ほど前のことであると記憶している。正直、今更という感が拭えない。拭えないのであるが、またやれるならやってみたいという思いはあった。しかし、思いだけ物事が進めば苦労はしない。曰く「殺意だけで人を殺せたら」と――思いだけで物事が進まないことは、そう悪いことではないのかも知れない。

 それはさておき(措けていない)、テキストサイトである。昔はReadMe!のようなものもあったし、新規参入がそれほど難しくなかった気がする。然るに、最近は新しいブログを作るなりなんなりしても、どこでどうサイトの存在を人に知らせればよいのか、よく解らなかった。そこにVIPのテキストサイト企画である。これは大変ありがたい。やはり、この手のサイトというものは、人に見てもらってこそであろう。誰にも見られないものは日記帳にでも書いておけばよい。翻って、人見られる以上は、それを意識した内容にせねばならない。しかもSNSとは違い、自分のことを知らない人に見られることを前提とせねばならないのである。これは実に大変なことだ。


 どれくらい大変かというと、差し当たってはこういう自分語りをやっちゃいけないくらい大変なのである。そして、かようなありきたりなオチが如何に下らないかということは、唐突に文体が崩れた辺りから察して頂きたい。というか、その、ごめんなさい。


 我ながら謙虚な滑り出しであると褒めてやりたくなったところで、今後につきよろしく申し上げ、筆を置こうと思う。キーボードだけど。いつも置いているけど。

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